阪神監督56年史


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ブレイザー阪神 1年目

1979

4

61 60 9

びぃクラスや

ブレイザー(47)

最終順位

4

61 60 9

*順位は月末のもの

チーム成績

打率 HR 防率 盗塁 失策
.268 172 4.15 70 103
選手名 打率 HR
1 真弓明信 (26) .275 13 51
2 藤田平 (32) .275 0 3
3 掛布雅之 (24) .327 48 95
4 竹之内雅史 (34) .282 25 66
5 ラインバック (29) .309 27 84
6 中村勝広 (30) .280 5 21
7 若菜嘉晴 (26) .303 9 42
8 島野育夫 (35) .250 0 0
選手名 防率
9 江本孟紀 (32) 4.37 12 12

*数字は1979年シーズンの成績

ブレイザー阪神の1年目シーズン。

球団初となる最下位に沈んだ前年の雪辱を果たすべく、首脳陣が一新。監督には広島のヘッドコーチだったドン・ブレイザーが就任した。

また、数多くの選手を育てた中西太がヘッド兼打撃コーチとなった。(中西ヘッドの指導で好打者だった掛布雅之がもう一段上の階段を上り、このシーズン、球団新記録の48本塁打で見事ホームラン王を獲得した。)

前年のオフに事件ともいえる2つの超大型トレードが行われ、血の入れ替えとも言われた大変革が断行された。

田淵が去り、真弓が入団
1つ目は球界を騒然とさせた西武とのトレード。長年、阪神の顔として活躍した田淵幸一、古沢憲司の二人を放出。代わりに、真弓明信、若菜嘉晴、竹之内雅史、竹田和史を獲得した。

クラウンから生まれ変わったばかりの西武は看板となるスター選手を求めており、白羽の矢が立ったのが田淵だった。

*阪神西武の交換トレード
阪神→西武 田淵幸一、古沢憲司
西武→阪神 真弓明信、若菜嘉晴、竹之内雅史、竹田和史

江川が去り、小林が入団
2つ目は後に「江川事件」と名づけられ大問題となったトレード。

巨人がドラフト前日はどの球団も交渉権がない空白の一日だと独自に解釈。ドラフト外で江川卓と強引に契約した。

エガワる
この巨人の身勝手な行動から生まれた流行語。ルールを無視して思いどおりに物事を進めることは「エガワる」と言われた。

そして迎えたドラフト当日。各球団は「そんな無茶苦茶な契約は許されない」と抗議の意味を込め、巨人と契約済みの江川を指名。抽選の結果、阪神が交渉権を獲得した。

ドラフト後、交渉のために江川家に連絡を取った阪神だったが、江川の母が「巨人の江川ですのでお会いできません」と返答。交渉すらできずの状態が続いた。

巨人のリーグ脱退、新リーグ設立まで報じられる中、コミッショナーによる権限で「江川が阪神と入団契約後、巨人にトレードする形を取る」という要望が出された。

結局、交渉が長引くことを避けた阪神は、コミッショナーの提案に従う形で問題は終結。当時、巨人のエースだった小林繁と江川を交換トレードすることで合意した。

*阪神巨人の交換トレード
阪神→巨人 江川卓
巨人→阪神 小林繁

このトレードで巨人から手切れ金として5000万円を手渡されたとの報道があったが、小林は後に「5000万円ももらっていませんが、ちょっともらいましたよ」とコメント。(後に功労金の名目で3000万円が支払われていたことが判明。)

小林繁ブームが到来
球団の都合で急遽阪神へ移籍となった小林は悲劇のエースとして祭り上げられ、一躍時の人となった。移籍した年の安芸キャンプには小林見たさに1万2000人が集結、30社近い企業からテレビCMのオファーが殺到、芸人のモノマネネタになる(当時無名だった明石家さんまが小林のモノマネをしてブレイク)など、とにかく知名度と話題性は一プロ野球選手をはるかに越えるレベルだった。

そんな状況の中、巨人戦に合わせて自分のローテーションを組むようにブレイザー監督に直訴し、巨人相手には8勝0敗と大活躍。人気はさらに上昇した。

最終的にシーズン22勝をあげ最多勝、沢村賞を獲得。オフにはレコード「亜紀子」もリリースし歌手デビューも果たした。


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ブレイザーが監督

  • 1979 4
    61勝 60敗 9分
  • 1980 5
    54勝 66敗 10分

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