2位
67勝 63敗 2分
もうちょいやった
中村勝広(42)
2位
67勝 63敗 2分
*順位は月末のもの
打率 | HR | 防率 | 盗塁 | 失策 |
.250 | 86 | 2.90 | 43 | 69 |
順 | 位 | 選手名 | 齢 | 打率 | HR | 点 |
1 | 二 | 和田豊 | (30) | .278 | 0 | 23 |
2 | 遊 | 久慈照嘉 | (23) | .245 | 0 | 21 |
3 | 左 | パチョレック | (31) | .311 | 22 | 88 |
4 | 三 | オマリー | (32) | .325 | 15 | 62 |
5 | 一 | 岡田彰布 | (35) | .189 | 2 | 19 |
6 | 右 | 真弓明信 | (39) | .208 | 1 | 12 |
7 | 中 | 八木裕 | (27) | .267 | 21 | 60 |
8 | 捕 | 山田勝彦 | (23) | .204 | 4 | 31 |
順 | 位 | 選手名 | 齢 | 防率 | 勝 | 敗 |
9 | 投 | 葛西稔 | (25) | 3.83 | 6 | 8 |
*数字は1992年シーズンの成績
中村阪神の3年目シーズン。
ラッキーゾーン撤去で防御率2点台に
前シーズン終盤、「ドラ1投手5人による5試合連続完投勝利」という奇跡に沸いた甲子園。ファンたちはオフに行われた甲子園の*ラッキーゾーン撤去で投手王国の誕生を確信していた。
今回の改修により甲子園は両翼が4メートル、左中間と右中間は4.8メートル深くなり、簡単にスタンドまで打球が届かなくなった。
そして広くなった外野部分は、センター新庄剛志の圧倒的な守備力でカバーした。
これにより、当時、全員がバッピ(バッティングピッチャー)とまで揶揄された阪神投手陣が覚醒。チーム防御率は4.37から2.90と大幅に改善した。
阪神史上最高に楽しかったシーズン
そんな1992年は歴史に残る熱いシーズンだった。
この数年、開幕から数試合でBクラスに定着し、後は全く上向くことはない順位を1年間見守り続けるだけ。ファンにとっては修行のようなシーズンが続いていた。
ところが、この年は様子が違い、開幕から好調なスタートを切った阪神は桜が散った頃にもAクラスをキープしていた。
阪神ファンは順位表の見慣れぬ位置にある「阪神」という文字に毎日ニヤニヤ。ただ、「まあ、すぐに落ちよるから期待したらあかんで」と心のセーフティーネットを張ることは忘れなかった。
好調の阪神はゴールデンウイークに入ってもAクラスをキープ。この5年間、5位と6位だけ。そんなチームの大躍進に関西はざわつき、「これ、もしかするやつちゃうか」と何かを予感するファンも現れ始めた。
この頃にはスタメンに亀山努、新庄剛志の名前が並び、二人が揃って大活躍。連日、関西スポーツ紙の一面を「亀新」の文字が飾った。
そして梅雨。阪神はなぜかまだAクラスにいた。
街に溢れる阪神帽のおっちゃんたちも「今年の阪神、何かおかしないか?」と困った様子。ただその顔には抑えきれない笑みが広がっていた。
そんな中、6月9日に阪神はついに単独首位に立った。1985年以来となる約7年ぶりの出来事に関西は優勝したかのような大騒ぎとなり、街中で六甲おろしが鳴り響いた。
その5日後、湯舟敏郎が阪神では1973年の江夏豊以来となるノーヒットノーランを達成。優勝する時には歴史的記録が生まれるもの。もう誰もが優勝を確信した。
この頃には熱い思いを隠し持っていたファンたちが「今年はもろたで」と甲子園に集結。入場者数は日本一となった1985年をも上回る数字となった。
街は阪神の話題で溢れるどころか、阪神の話題だけとなった。
「7年か優勝にはちょうどええ頃合や」
「やっぱ中村さんやるおもてたわ」
「亀山新庄もええけど久慈がええ」
「マイク(仲田幸司)最多勝取るで」
「たむじい(田村勤)昨日、チャリ乗ってんの見たで」
期待しないと言いながら毎朝スポーツ新聞を端から端までチェックし、夜はスポーツニュースをハシゴする毎日を送っていた人たちが、堰を切ったかのように阪神について語り始めた。
でも分かっていた。
守護神の田村が離脱、八木の幻のホームラン*、臨時ストッパーの湯舟が炎上、連続押し出しからのサヨナラ負けなど、終盤に失速し首位を守ることはできなかった。
1992年9月11日、甲子園での阪神対ヤクルトの首位攻防戦での出来事。9回裏に八木裕が放った打球を平光塁審がホームランと判定。サヨナラ2ランで試合終了と思われたが、判定はエンタイトルツーベースに覆った。(実際はラバー部分で跳ねたため、ホームランが誤審だった。)
怒ったファンの乱入。逮捕者も出る中、37分の抗議の末に試合は再開。6時間26分の激闘は延長15回でも決着はつかず引き分け。試合終了は0時26分だった。
なお、打球判定を行った平光審判は責任を取る形でシーズン終了後に辞任した。
6位、6位、5位、6位、6位。そんな5年間。上位争いすることないシーズンが5年間続いていたこともあり、とにかく盛り上がったシーズンだった。結果は残念だったが、この1992年は歴代で最も面白かったシーズンにあげる人がいるのも納得である。
ちなみに亀山と新庄の二人は引退後に激変した。
亀山はOB戦で見違えるような姿で登場。ピーク時には現役時代から58キロ増量し135キロになっていたという。
日ハム監督となった新庄は2024年の交流戦で甲子園に凱旋。3000万円かけたその顔は、これ以上ないぐらいにパンパンだった。