阪神監督56年史


うちの監督

ホーム > シーズン > 1992年 中村勝広

中村阪神 3年目

1992

2

67 63 2

もうちょいやった

中村勝広(42)

最終順位

2

67 63 2

*順位は月末のもの

チーム成績

打率 HR 防率 盗塁 失策
.250 86 2.90 43 69
選手名 打率 HR
1 和田豊 (30) .278 0 23
2 久慈照嘉 (23) .245 0 21
3 パチョレック (31) .311 22 88
4 オマリー (32) .325 15 62
5 岡田彰布 (35) .189 2 19
6 真弓明信 (39) .208 1 12
7 八木裕 (27) .267 21 60
8 山田勝彦 (23) .204 4 31
選手名 防率
9 葛西稔 (25) 3.83 6 8

*数字は1992年シーズンの成績

中村阪神の3年目シーズン。

ラッキーゾーン撤去で防御率2点台に
前シーズン終盤、「ドラ1投手5人による5試合連続完投勝利」という奇跡に沸いた甲子園。ファンたちはオフに行われた甲子園の*ラッキーゾーン撤去で投手王国の誕生を確信していた。

*ラッキーゾーン
ライトとレフトのフェンス手前に設置され、飛び込むとホームランとなる金網で囲われたエリア。ブルペンとして使われていた。1991年12月5日に撤去された。

今回の改修により甲子園は両翼が4メートル、左中間と右中間は4.8メートル深くなり、簡単にスタンドまで打球が届かなくなった。

そして広くなった外野部分は、センター新庄剛志の圧倒的な守備力でカバーした。

これにより、当時、全員がバッピ(バッティングピッチャー)とまで揶揄された阪神投手陣が覚醒。チーム防御率は4.37から2.90と大幅に改善した。

阪神史上最高に楽しかったシーズン
そんな1992年は歴史に残る熱いシーズンだった。

この数年、開幕から数試合でBクラスに定着し、後は全く上向くことはない順位を1年間見守り続けるだけ。ファンにとっては修行のようなシーズンが続いていた。

ところが、この年は様子が違い、開幕から好調なスタートを切った阪神は桜が散った頃にもAクラスをキープしていた。

阪神ファンは順位表の見慣れぬ位置にある「阪神」という文字に毎日ニヤニヤ。ただ、「まあ、すぐに落ちよるから期待したらあかんで」と心のセーフティーネットを張ることは忘れなかった。

好調の阪神はゴールデンウイークに入ってもAクラスをキープ。この5年間、5位と6位だけ。そんなチームの大躍進に関西はざわつき、「これ、もしかするやつちゃうか」と何かを予感するファンも現れ始めた。

この頃にはスタメンに亀山努、新庄剛志の名前が並び、二人が揃って大活躍。連日、関西スポーツ紙の一面を「亀新」の文字が飾った。

そして梅雨。阪神はなぜかまだAクラスにいた。

街に溢れる阪神帽のおっちゃんたちも「今年の阪神、何かおかしないか?」と困った様子。ただその顔には抑えきれない笑みが広がっていた。

そんな中、6月9日に阪神はついに単独首位に立った。1985年以来となる約7年ぶりの出来事に関西は優勝したかのような大騒ぎとなり、街中で六甲おろしが鳴り響いた。

その5日後、湯舟敏郎が阪神では1973年の江夏豊以来となるノーヒットノーランを達成。優勝する時には歴史的記録が生まれるもの。もう誰もが優勝を確信した。

この頃には熱い思いを隠し持っていたファンたちが「今年はもろたで」と甲子園に集結。入場者数は日本一となった1985年をも上回る数字となった。

街は阪神の話題で溢れるどころか、阪神の話題だけとなった。

「7年か優勝にはちょうどええ頃合や」
「やっぱ中村さんやるおもてたわ」
「亀山新庄もええけど久慈がええ」
「マイク(仲田幸司)最多勝取るで」
「たむじい(田村勤)昨日、チャリ乗ってんの見たで」

期待しないと言いながら毎朝スポーツ新聞を端から端までチェックし、夜はスポーツニュースをハシゴする毎日を送っていた人たちが、堰を切ったかのように阪神について語り始めた。

でも分かっていた。

守護神の田村が離脱、八木の幻のホームラン*、臨時ストッパーの湯舟が炎上、連続押し出しからのサヨナラ負けなど、終盤に失速し首位を守ることはできなかった。

*八木の幻のホームラン

1992年9月11日、甲子園での阪神対ヤクルトの首位攻防戦での出来事。9回裏に八木裕が放った打球を平光塁審がホームランと判定。サヨナラ2ランで試合終了と思われたが、判定はエンタイトルツーベースに覆った。(実際はラバー部分で跳ねたため、ホームランが誤審だった。)

怒ったファンの乱入。逮捕者も出る中、37分の抗議の末に試合は再開。6時間26分の激闘は延長15回でも決着はつかず引き分け。試合終了は0時26分だった。

なお、打球判定を行った平光審判は責任を取る形でシーズン終了後に辞任した。

6位、6位、5位、6位、6位。そんな5年間。上位争いすることないシーズンが5年間続いていたこともあり、とにかく盛り上がったシーズンだった。結果は残念だったが、この1992年は歴代で最も面白かったシーズンにあげる人がいるのも納得である。

ちなみに亀山と新庄の二人は引退後に激変した。

亀山はOB戦で見違えるような姿で登場。ピーク時には現役時代から58キロ増量し135キロになっていたという。

日ハム監督となった新庄は2024年の交流戦で甲子園に凱旋。3000万円かけたその顔は、これ以上ないぐらいにパンパンだった。


関連ページ

中村勝広が監督

  • 1990 6
    52勝 78敗 0分
  • 1991 6
    48勝 82敗 0分
  • 1992 2
    67勝 63敗 2分
  • 1993 4
    63勝 67敗 2分
  • 1994 4
    62勝 68敗 0分
  • 1995 6
    46勝 84敗 0分

中村勝広のページ


ホーム > シーズン > 1992年 中村勝広